
『セッション』が今年のアカデミー賞にノミネートされ3部門で受賞されました。
私も以前この映画を観て、衝撃を受けました。
音楽学校でドラムを学ぶニーマン青年に担当教官フレッチャーは常軌を逸した指導をします。
この教官、もう崩壊しているとしか思えない人格なのですが最後まで観ていて、フレッチャーが狂っていようが教師として不適合だろうが主人公ニーマンにはどうでもよかったのだと思い至りました。
それはフレッチャー自身が語るあのチャーリー・パーカーのエピソードからわかることです。
ジャズサックス奏者のチャーリー・パーカーは無名時代、ライブで大失敗をします。
そのときバンドメンバーのジョー・ジョーンズはチャーリーにシンバルを投げつけ怒りをあらわにします。
チャーリーは激しく落ち込みその後人々の前から姿を消します。
そして一年後、チャーリーは人々の前に姿を現し、圧巻の演奏をみせます。
ここにバードと呼ばれる伝説のスターが誕生したのです。
もしあの失敗ライブのときジョー・ションズがシンバルを投げつけずに「お前はよくやったよ」とチャーリーを慰めていたなら、チャーリーはバードにはなれなかった。
このエピソードからチャーリーにとってジョー・ジョーンズの人格も行為も問題ではなく「シンバルを投げつけられるほどの激しい否定」が必要だったということです。
ニーマン青年に対してフレッチャー先生が常識的な指導をしていたなら、映画の最後、ニーマンのあの神がかった演奏は生まれることはなかったでしょう。
チャーリー・パーカーがバードになったと同じように。
だから嫌な人と出会ったとき、その人自身にファーカスするのではなくてその人が自分の成長にどんな役割を果たし得るかを計るのも一考だと思います。
すると母親という立場も子供にとってある程度そうであるべきではないかと思いはじめました。
「もう寝なさい」
「宿題しなさい」
「お片付けしなさい」
「ゲームをやめなさい」
きりのない小言を言いつづけて子供に規範を植え付ける存在。
父親も子供にある程度の脅威を与えることで、この父を超えなければ向こう側の大人の世界には踏み込めないぞと思わせる存在。
父母という存在の前で子供は自己と向き合い、自己を確立し、鍛錬していくのだとしたらそれらは必要な媒体です。
親は子供を可哀そうだと思いつつも、子供に負荷(これを躾けというのでしょう)を与えていかなければなりません。
「フレッチャー先生理論」だと甘やかすばかりでは子供は何者にもなれないのですから。
そう思えば私の人生の中に現れていた苦手な人たち、煙たい人たちは私のある部分をよい方向に変容させてくれたと思います。
私にとって彼らの人格などまったく関係なく私に与えた影響だけが重要だったのですから。
『セッション』を観てそんなことをいたく感じました。
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posted by 子育てママの絵日記 at 17:32
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